バンダイ深掘コラム「夢・創造人」

2020年4月10日

Vol.07 おもちゃのまちバンダイミュージアム<後編>~顧問・金井正雄のバンダイでの歩みとミュージアムへの想い~

今回は、「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の顧問である金井を掘り下げていく。金井は1977年入社。バンダイが玩具メーカーとして成長していった時代を見守り続けた人物だ。
施設内のエジソンの発明品の数々を見ることができる「エジソンミュージアム」で、金井は来場者にエジソンの発明について説明している。金井がエジソンに、そして「おもちゃのまちバンダイミュージアム」にどのような想いを託しているのかを掘り下げていきたい。
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顧問・金井正雄

大きく成長する最前線で
バンダイを支え続けた
“屋台骨”

金井がバンダイに入社した頃、ポピー、アメリカの玩具メーカーTonkaの日本代理店であるジャパントンカ、バンダイ工業、バンダイ模型などの子会社があった。

金井は最初、本社からバンダイ模型に出向という形で勤務していた。時代はスーパーカーブーム、だがバンダイのプラモデルはそのブームに乗り切れていなかった。その状況が好転するのが「宇宙戦艦ヤマト」である。アニメブームの牽引役である「ヤマト」のプラモデルは大きなヒットとなった。

ファンの心を掴んだのはそのリアルな造形にある。当時、プラモデルはアニメからかけ離れたスタイルで内部にゼンマイボックスを入れて走るものが主流だった。バンダイはこのゼンマイボックスを廃し、アニメに近いスタイリングのプラモデルを作ったのだ。この姿勢がユーザーに受け大ヒットに繋がり、その後「機動戦士ガンダム」でさらに花開くこととなる。

金井は何十もの「ヤマト」の完成品サンプルを作り、プラモデル最先端の地・静岡の町中の模型店においてもらえるよう、奔走したという。

やがて日本で「ガンプラ」ブームが沸き起こった頃、金井は業務のシステム化のために、初めての海外勤務を命じられ、当時、アメリカのニュージャージー州にあったバンダイアメリカへ渡った。日本ですでに展開していたLSIチップを使った携帯型の電子ゲーム機、「LSIゲーム」のアメリカでの販売に力を入れていた。

館内の「ジャパントイミュージアム」コーナーでは
当時のLSIゲームも展示されている

80年代のバンダイは業務の拡大・拡充とともに、グループ8社の合併や東証上場など大きく変化していった。それに伴い、現在では当たり前となっている各種業務のシステム化の要求が高まり、日本に戻った金井はそれらのシステム開発業務を担うこととなる。

1983年の8社合併の際に問題となったのが、グループ各社がそれぞれの商品に付けている「品番」の統合だ。多くの同一品番が発生する事態となった。
システム開発をしていた金井は各社の5桁の品番の前に2桁を加えることにより、それまでの品番を認識しつつ、システムとしては7桁の固有品番で管理できる工夫をしたとのことだ。その後も、バンダイ栃木工場に移り、原価計算や在庫管理システムの開発などを担当した。

バンダイが海外展開を強化していった90年代、とくに1993年の「パワーレンジャー」のヒットで、すでにアメリカで展開をしていた日本初のキャラクターマーチャンダイジングをヨーロッパにも広げていくこととなった。
当時は欧州通貨統合前であり、欧州各販社が各国で販売展開をする際の為替リスクの問題がネックとなっていた。93年より本社経営企画を担当していた金井は、当時の本社監査役とともに1994年にオランダに渡り、休眠状態だったバンダイオランダを欧州ビジネスにおける為替リスク回避を目的とし、輸出入や為替管理を行うリ・インボイス会社として復帰させ、生産拠点としてのアジアからの輸入と欧州各国通貨に変換する業務を担当した。

その後2001年に帰国、経理部および情報システム部などを担当し、2012年より「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の館長を務め、現在は同顧問となる。

「いろんなことをやりましたよ。生産や資材調達、営業、システム開発、為替管理、経理、経営企画、IR関連…というよりいろいろと経験させていただきました。多くの人たちに迷惑をかけ、かつ助けられました。」

金井が心がけたのは「部下に任せる」。部下の失敗を恐れず、支える。優れた部下を見つけ、任せる。責任はきちんと持ちながら部下の裁量に任す。それはバンダイの社風でもある。金井がバンダイの新しい状況を切り開いていけたのは、現場の人間として“任せてもらえた”からだと、金井は語った。

発明には
もの作りの原点がある。
金井がエジソンミュージアムに託した想い

金井は「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の館長として、バンダイの根幹、「玩具作りのコンセプト」を提示することとなる。バンダイだけでなく、日本の玩具メーカーがどのように子どもたちにアプローチしたか、世代の違う人たちすべてが「この玩具で遊んだ」と足を止める「ジャパントイミュージアム」は特に金井の考えが色濃く出ている場所だ。

金井は「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の館長として企画・運営を進めるうえで、来館する子どもたちやかつて子どもだった大人たちと直接向き合い、お客さまに“楽しさ”を提供してきたが、それは館長から顧問になった今でも変わっていない。

「私は“遊び”が好きなんです。いかに楽しいか、楽しめるか、それを考え部下にも『もっと楽しくなるようにしよう』と言ってきた。それは今でも変わりません。あとは根幹として子どもが好きなんです。子どもを喜ばせたくてバンダイに入社した。ここでは子どもにどう喜んでもらえるかを常に中心に考えています。小さくても良いから、『バンダイっていいね』、『バンダイって楽しいね』と言ってもらえる場所を作りたかったんです。子どもたちが楽しんでくれて、何度も来たがってくれる。連れてくるお父さんお母さんも楽しめる。『おもちゃのまちバンダイミュージアム』はそういう場所を目指してます」と金井は語った。

金井が展示物の中でも強く思い入れを持っているのが「エジソンミュージアム」だ。金井は子どもたちが遠足などで見学に訪れる際には解説を行っている。エジソンが発明した円筒型の記録装置を持つ蓄音機で当時の音色を奏でたり、同じくエジソンが発明したトースターでパンを焼いたりする。楽しく、直感的にエジソンが人々の生活をいかに変えていったかを語る。展示も当時の発明がいかに画期的であり、そして今の生活にどう繋がっているかがわかりやすい。金井は実に楽しそうに説明するのだ。話を聞いていると、金井の“聞き手”へのサービス精神が強く伝わってくる。

蓄音機を実際に動かして見せる金井

実を言えば金井が「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の館長となったとき、エジソンについての知識はあまり深いものではなかったと本人は語る。
当初収蔵されている多くの発明品を見て彼の発明のジャンルの幅広さや、現在の家電製品などにつながる原点といえる数多くの原理に感激したそうだ。

しかし、興味深くそれらの展示説明などを見ていくと、いくつか「なぜ?」「本当?」など疑問やさらなる興味が深まり、その時代の電気的技術や物理理論の発達度合い、また歴史的背景などと発明との関連を知りたくなり、猛勉強したそうだ。

特に金井が怪我をして入院した際、病院での退屈な時間をエジソン関連の資料を読み漁ることで、知識を深めるとともに、“発明”の面白さと玩具の原点との共通点に改めて気づき、その後、子どもや大人たちにエジソンの発明品の説明のみならず、彼の人物像や発明原理を積極的に紹介することになったという。

「なぜおもちゃのまちバンダイミュージアムにエジソンミュージアムがあるのか?」という問いに対し、金井はしっかりと答えを出している。エジソンの発明が提示しているものは、玩具作りの根幹、そして常に新しいものや価値観を創造しようというバンダイが目指す方向性を提示するためにあるのだ。

「もの作りって本当に面白いです。皆さんもぜひ『おもちゃのまちバンダイミュージアム』で、もの作りの楽しさを感じてください」最後に金井は読者に向かって語りかけた。

おもちゃのまち バンダイミュージアム
https://www.bandai-museum.jp/
※「おもちゃのまち バンダイミュージアム」の現在の開館状況については、公式サイトをご確認ください。

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